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AYAKI幼少期について【エッセイ】

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こんにちは、2024/6/23の
彩生ーAYAKIーです

広い世界の中からAYAKIを見つけてくださり
こちらのエッセイを読んでご購入くださり
ありがとうございます♡

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さて、
今回はAYAKIの幼稚園時代について書いていきます。

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【母の教育理念で通ったモンテッソーリの幼稚園】

私は少しばかり先を行っていた母の教育理念(1)で
モンテッソーリの幼稚園に通っておりました。
(その幼稚園卒業者は卒業後いろんなところで変人と言われることが多く、もれなく私もその一人w)

その幼稚園では登園してから帰りの時間までほとんど自由に過ごします。

決まっていることといえば
ご飯の時間、帰りの会、リトミック、その他季節行事のための練習くらいで
そのほか自由。
時間割りもなければ
「やらなけらばいけないこと」もありません。

部屋の中でお箸を使って豆を移動する知育おもちゃで遊ぶ時間もあれば

長〜い階段があり、当時サウンド・オブ・ミュージックにハマりまくっていましたので
そこで一人歌って妄想に耽ってみたり

小さい機織り機でバックを作ってみたり

陶芸小屋もありましたので陶芸する日もあったり

広い園内には遊び道具がいっぱいありましたので
長く大きい石でできた滑り台何往復もしたり

夏はプールでキャイキャイ遊んでみたり

ご飯も食べたくなければ食べなくていいし

今ではぼっち飯してたら「可哀想」なんて外側の勝手な目線で
仲間に入れて上げよう!みたいなおせっかいありますが
ぼっち飯してても自分のこの後の遊ぶ予定に一生懸命すぎて
むしろほっといてくれ!と思ってなんも思わないし
一緒に食べたかったら声かけたらいい。

人間関係でゴチャついたってそれはそれでいいというかw
先生も止めに入るではなく
中間で話を聞いて幼稚園児にもわかるように整理してくれる。

その時
「やりたいこと」を氣の赴くままする

そんな感じで
「男の子だから」「女の子だから」や
「年上だから」「年下だから」や
「できる」、「できない」の評価や
時間単位でスケジュールを決められて
それを行うために幼稚園には行っておりませんでした。

そんなカリキュラムや教育方針で過ごした幼稚園時代。

今思い出してもとても楽しかった思い出しかありません。

カトリック幼稚園でもありましたので
お祈りの時間もありましたが
あれぐらいですかね、若干「はよ終われー」って思ってたの(遠い目

シスターや先生たちも毎日ニコニコ。
氣まぐれな子供たち相手にあんなに笑顔でいつ何時声をかけても
「AYAKIちゃんなぁに?」と対応してくれる先生がいてくれて
本当に幸せでした。


【3ヶ月の休園】

当時父の事業がガタガタだった時期があり
家に借金取りの人が訪問してくることがよくありました。

両親は子供にとって悪影響と考えたのか
阪神淡路大震災の三ヶ月前、
私が4歳の時
幼稚園をおやすみして
母は私と妹を連れてニュージーランドへ。

私は子供だったし母も外国が好きな人だったので
ひどいアトピーがありながらも
私や母はニュージーランド生活を満喫しておりました。
(妹はどうだったんだろう?)

ニュージーランドで出会った人たちはどなたも優しく
メンヘラAYAKIに対して目一杯愛情を注いでくれて
その時の大人のニュージーランドの大人、子供、日本人に大感謝です。

お氣に入りの一人遊びとしましては
当時髪が短かったのですが
私はセーラームーンのうさぎちゃんが好きだったので
羊の毛をヘアピンで髪に一直線につけて
(今で言う付け毛みたいな感覚です)
髪が長い妄想に浸るのが好きでした。

ホームステイ先の近くの幼稚園に行った時は
糊の上にラメを落としてそれで絵を描くことにハマりまして
それをひたすら楽しんだり
ボーイフレンド(?)を作ったりと
とてもマセた4歳児であったことを認めぜるを得ない
楽しい時間を過ごしました。

牛乳配達のおじさんはとてもkindnessで
会えると超HAPPY!でした。

スーパーマーケットに行くのも楽しみの一つで
今はもう薄れてしまいましたが
そのスーパーマーケットの臭いを思い出し
一人ニヤニヤしてた時期がございます。

唯一の苦な時間があったとすれば食事時。

ニュージーランドのお肉がとにかく不味かったw w w

とにかくお肉が出てきたら泣きそうになりました。(カワイソー
クソ不味いのに食べなきゃ怒られる。
「お腹減ってない」は通じないので
苦肉の策として
口の中にひとまずいれて、咀嚼したと見 せ か け て!
母の目を盗み口から出して捨てる。

そんなことをしておりました。
唯一の苦痛の時間でしたね。

そのほか母はいろんなところに私と妹を連れて行ってくれました。

ヘリで氷河を見に行ったり
イルカを見たり
いろいろなところに母一人子二人で行きました。

個人的に、ある教会の静かで精錬とした空気が
いまだに忘れられません。

そして帰国して数日後
阪神淡路大震災を箕面の祖父母の家で体験し
その後幼稚園に復帰します。


【当時から苦手なこと】

自由な校風の幼稚園でしたが
唯一その当時から私が苦手、と思っていたことがあります。

それが人間関係構築

大好きなことをずっと、し続ける
大好きなものは飽きるまで食べる

それと同じように

大好きな子は“ずっと“隣にいてほしい!!
という気持ちが強かったので

男女共学でしたが
大好きな女の子が他の子と遊んでいると邪魔しに入ったりしに行っちゃう

そうすると
言われた相手の子は言い返して来てくれたりしたので
それは互角って感じで良かったけど
問題は大好きな子が困る、ということ

困る、ということは一緒にいてて心地は良くないですよね。

それはわかるけど好きな気持ちをどうしたらいいのかわからず
一直線で行きすぎるので
相手が困る
というループにこれから悩んでいくのでした。


【通いたかった小学校】

小学校はタッキーさん通っていた
芦屋の朝日ヶ丘小学校というところで
芦屋の山の上で自然豊かな清々しい学校でした。

朝のクラシックの音楽と清々しい朝の光が美しいお氣に入りの時間のある学校でした。

通えて楽しかったのですが

実はもう一つ個人的にとても通いたかった学校がありまして
今では有名になりましたが
「森の学校」

こちらも母の教育方針(2)で一週間くらいオープンキャンパスに参加
とても楽しかったのです。

環境としては大自然が学舎で
日々自然の中で遊びながら
生きる知恵として
算数、理科など様々なことを学んでいく
「生きた教育」を実施していたところ。

ですが
入学するとなれば寄宿舎に入ることになり
①当時喘息の持病がありましたのでその懸念
②母がまだ娘と離れて暮らす覚悟がなかった(母談)
ので
めちゃくちゃ行きたかったのですが
断念。

私の人生で唯一の「もし。。。」を考えて悔しく思うのは
『この学校に通えていたらどんだけ楽しかっただろう』
ですね。
楽しかった!!という体験をして
結局その場に身を置けなかった最初の体験だったので
ちょっと尾を引いてます。

前述した通りこちらには通わず
地元の公立小学校に通うことに。


【憧れはランドセル!】

さて地元の小学校に入学!
母の教育方針(3)でランドセルではなく
キャンパス布のリュック(今だったらかわおしゃ)で登校していました。
ランドセルではないカバンでくる生徒は
クラスの中で私一人だけでした。

ここで個人的に面白いのが
恥ずかしいとかではなく憧れたということです。

だって当時(30年前くらい)から
小分けできるポケット、給食着をかけれるフックなど
ランドセルは機能が満載!!!子供心にときめきました。

給食着横にかけれるのいいなー、あれいいなー!みたいな
欲しかったですね〜

今では海外の大の大人がランドセルを使って通勤したりと愛用者がいるみたいじゃないですか!
それくらい(?)ランドセルは個人的に憧れの対象でしたね

しかし、
当時横に座っていた広谷くんという男の子がいまして
とても素直でいい子で
私のカバンの留め具が氣に入り
帰る用意をする際
最後の留め具締めを買って出てくれていました

なんていい子なんだ・・・!
唯一のキャンパス布リュックで嬉しかった時間。
その子に私はどれだけ救われたか!
ありがとう広谷くん!(漢字間違ってたらごめんね)

五年生の時、芦屋から西宮へ引っ越しすることになり
当時の5年生の担当教員森先生と野村先生が大好きすぎて
使用済みのハンカチを要求。
結局新品をくれたのですが

「使用済みがよかったのになぜわざわざ新品なんだ」

と今思えばえらくやばい変態的な不満を心にこぼしながら受け取り
大人になるにつれその文句のヤバさに
悶絶した日もございましたが
今では微笑ましいです。(乗り越えたー

森先生、野村先生。
多分困惑されましたであろう気持ちの悪い要求だったのにも関わらず、
ご対応いただきまして
本当に謝罪と感謝申し上げます。。。
まだハンカチは大事にしております。


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今回はここまで。

少しでもやばいAYAKIの昔話楽しんでいただけたら嬉しいです!

ちょくちょく出てくる母の教育方針、面白いですよね。
母に関しては他にもいろいろ面白い案件あるのですが
それは置いときます。

私にとっては普通でしたが
今考えればあの時代にその理念を曲げず
モンテッソーリの「理念」に共感して
その幼稚園に子供達3人とも通わせたり

『人と同じことをして安心する』ことに重きを置かなかった母
むしろその流れに抵抗した母

純粋にすごいと思います
そしてありがとうと思います。

そして同時に
そこまでこだわりがないながら
大変だったろうに子供達3人ともそんな幼稚園に通うため
日夜仕事をして踏ん張ってくれた父。

本当にありがとう。

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次回更新時もし書くとしたら
ー暗黒の中学時代ー
ですかねw

氣分で変わりますw

お楽しみに!

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【ちょっと伝えたいこと】

私はこの幼少期の体験から得た感覚、記憶がとても愛おしいです。

いろんな人に当時のこと話したい気持ちもありますが
そうなると相手の視点での私が語られることにもなります。
嬉しい話の時もあれば嫌な話の時もあります。

何が嫌って
そこで今まで大切にしていた感覚が崩れるのを私はとても嫌います。

嘘でもその中に光を感じたならその光を大切にしたい。

何回かそういう『これ嫌やなー』という経験をして思ったのは
わざわざ「正そう」としに行っていた自分がいたことです。

潜在意識の働きを学んだ時
「うまくいかないのはあなたの中で掴み続けている固定概念」
と教わりいろいろいい思い出も悪い思い出も
ガサガサしたことがあります。

でももっと混乱しました。
なぜなら
「私の人生うまく行ってない」というベースで取り組んでしまったこともあり
「好き」「楽しい」を疑うことになり
何が何だかわからなくなったのです。
自分との信頼関係、要するに大事な部分とのつながりが
一回たたれました。

なのでうまく行っていてもいかなくても
私は私が大事にしたい視点を大切にしよう。と心に決めています。

必要な時に必要なタイミングで自浄作用が起きますので
好きは好きなまま
嫌いは嫌いなままにしてても問題ないなと思います。

私は私の幼少期の物語が気に入っています♡
楽しかった、悲しかった、悔しかった、腹たった
全部含めて大好きな時間だった、

その時の記憶も感覚も
大事にできるのは自分しかいないんです。

変えようとしなくても
どんどん流れていく時間の中で記憶が薄れたり
解釈が自分の中で変わるという変化がある。
ちゃんと変化するんです。

うまくいかないから内面を変えよう
その通りだから取り組むことは全然いい!
でもその際は
『大好きな人』から教わってください。
『大好きな人』が書いてる本を選んでください。

ー大好きな人が結果を出している。だからその人の話を聞こうー
これが大切だと思います。
大事な心の話ですから
安心してその心にタッチできる環境は
自分で整えてからタッチしにいきましょうね。

一人一宇宙。

私はこの記憶を大事に抱えて思い出して
ニヤニヤしたいですw


だからあなたの大切な気持ちや想いや記憶
正しさで無理に変えようとしないで。
そのことが原因で
もしも何かの拍子に誰かを傷つけてしまうようなことがあれば
誠実に謝ったらいいんです。

怖がる必要はありません。

ぜひご自身の聖域、大事にしてくださいね♡


各々の宇宙がますます輝くことを願って

AYAKI

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